ABOUT US私達について
PHILOSOPHY
行動理念
We act for heal of
a friend and the customer.
仲間、顧客の癒しの為に行動する
ACTION PHILOSOPHY
行動理念
01まず自分が変わる
02常に向上心を持って
行動する
03家族、仲間、顧客に
感謝の気持ちを持つ
MESSAGE代表メッセージ
代表取締役 髙畠 裕介
社長一万文字メッセージ
株式会社リハビリ介護、代表取締役の髙畠裕介と申します。この度は、弊社に興味を持っていただきありがとうございます。
2012年の創業以来、本当に多くの方にご利用いただいてまいりました。そのおかげもありまして、 現在、就労支援施設5か所、整骨院1か所、ウェブ制作事業の会社を運営させていただいております。 今回は、今一度改めてこの文章を通して当社のことをご理解いただけたらと考え、このような形を取った次第です。
当社は社員61名前後と、まだまだ小さい組織です。そこで、当社のことを知っていただくために、まず私のことを知っていただこうと思うに至りました。 小さな組織であればあるほど、その組織のチカラや器は代表である私と紐づいている、と考えているからです。
そのため、このページでは弊社が生まれた経緯や、私自身がどういう生き方をしてきたのか、それを事細かくお伝えしたいと思っております。 是非、私のことを知っていただき、少しでもいいなと感じる部分がありましたらご応募ください。
私は会社員の父とパート勤務の母を持ち、東京都に生まれました。妹が1人の4人家族で、本当にどこにでもある平凡な一家だったと思います。 他の子どもたちと同じように地元の小学校に進むのですが、1年生にして不登校を経験しました。担任の先生と相性が合わず、どう頑張っても学校に行けなくなってしまったのです。 両親はそんな自分を寛容に受け入れてくれたものの、やはり親心なのでしょう。母親はあの手この手で私が学校に行けるように苦心していました。フリースクールに通ったり、カウンセリングを受けたこともあります。 病院に連れていかれては「特に異常はないですよ」と言われて帰ってくるので、母もしんどかっただろうなと思います。
何より私自身が学校にいけない自分をひどく惨めなものだと感じていました。今から40年近く前ですから不登校=落伍者という強烈なレッテルがあったような気がします。 始まったばかりの小学校生活のスタートでいきなり社会のレールから外れてしまったことに焦り、落ち込み、絶望していました。 自分のような落伍者はこの先の人生ではもう人並みにはなれないという劣等感を抱えて、とにかく辛かったですね。
その後、父親の転勤で札幌に転校した私は、無事学校に通えるようになります。環境が変ったことが何より大きかったのでしょう。両親も、何より自分自身がホッとしていました。
しかし、この不登校の経験がその後の人生に様々な影響を及ぼすようになります。
小学校2年生からの自分は打って変わったように楽しい学校生活を送り、友達もたくさんできました。とはいっても勉強もスポーツも特に秀でたところはなく、
部活に夢中になることもありませんでした。とんとんと地元の中学高校に進みながら、常に「学校は楽しくないなぁ、面倒くさいなぁ」と思っていました。
そんな私ですから、高校卒業後に進学という選択肢はありません。何となく「社長になりたいな」と考えていました。といっても、 別に起業して一旗揚げようという心意気があったわけではありません。「こんな自分だから、就職しても“つまらないな”と感じながら会社に行くんだろうな」という直感があったのです。 ちょうど就職氷河期と言われる時期だったこともありました。ヒーヒーいいながらやっとの思いで就職しても、 いざ会社勤めがはじまれば、行きたくない場所に通う毎日が始まる。それなら、自分で行きたくなるような会社をつくった方がいいんじゃないかという軽い気持ちでした。
かといって、これといった取り柄のない18歳がぽっと社長になれるはずもありません。とりあえずアルバイトでもするか、
と探してみると一風変わった仕事が見つかりました。広く言えばパン屋さんですが、いわゆる時給いくらという形態ではありません。
朝にパンを何万円分か仕入れると、後は自分で売った分だけ儲けになるという形です。移動販売の方式をとっていて、個人事業主的な立ち位置だったと思います。
300円のパンを売ると90~100円くらいの利益だったので、利幅は大体30%。1日5万円売れば1万5000円ほど残りました。
毎日毎日パンを仕入れては売りに行く、の繰り返しの中で商売の基礎を学んだ気がします。ガソリン代は経費になるなとか、
個人宅はせいぜい2~3個しか売れないけど企業の営業所に行けば10個は売れるから大口顧客は大事にしようとか。コーヒーも一緒に準備したら売れるんじゃないか?と品ぞろえも磨きこみましたし、
効率を上げるためにもう一人必要だから採用しよう(友達に手伝いを頼む程度ですが笑)といったことも実行していましたね。売れ残りはロスで1円にもなりませんから、
お昼の段階で半分以上残っていると胃が痛くて…ごく小規模な商売でしたが、あの時感じていた経営者の気持ちは基本的なところでは今でも変わっていないなと思います。
1年ほどパン屋を続け、100万円の貯金ができたところで海外に行くことにしました。高校を卒業する時から計画していたことです。
特に取り柄のない自分でも外国に行けば色々なことが学べてレベルアップするんじゃないか…そう思っていたのです。選択肢は色々とありましたが、
物価も安く長期間住めるという理由でインドネシアを選びました。最終的に3か月くらい住んでいたと思います。
パン屋の次に日本で何をしようかな…と考えながら暮らすなかで、ある日、インドネシア雑貨を日本で売ると月100万くらい稼げるらしいと耳にします。
それなら自分でもできそうだ、と30万円分ほどの雑貨を買い込んで札幌に戻ることにしました。路上やフリーマーケット、 催事などで店を開くと何とか食べていけるくらいには稼げます。人脈もできそれなりに順調でしたが、この商売もほどなく辞めることになりました。 きっかけは父から何気なく言われた「雑貨だとなかなかリピーターがつかないよね」という一言です。 ごくごく普通のサラリーマンの父ですが、ふらふらしている息子を見て思うところがあったのかもしれませんね。
一理あるなと感じた私は、リピーターがつきやすい商売は何か??と考え、飲食店をはじめることを思い立ちます。
カレー屋、ラーメン屋、居酒屋、ベトナム料理店…といくつかのお店で経験を積んだ後、インドネシア料理とカレーのお店を出すことにしました。
3か月インドネシアに住んでいたというだけで、特に料理経験もない21歳がお店を構えるんですから今思えばだいぶ怖いもの知らずだと思います(笑)。
とにかく世間知らずでお金もないですから、大工さんに発注するという発想も無くて。何でもDIYで一から作っていきました。すると、たまたまお付き合いのあった電気工事士さんとか大工さんとか
絵がうまい友達なんかが集まって、いろいろ助けてくれるんです。「そんなキッチンで料理したらすぐ火事になっちゃうよ」とか言って。人のありがたみを感じるのと同時に、
自分のやりたいことはきちんと発信すること、ひたむきにそれに向かって努力すること。これを続ければ周りが助けてくれるんだということに気づく機会になりました。
友だちを中心に色々な人にお店を利用してもらいながら、しばらくするとテレビの情報番組にも出られるようになりました。あくまで地元のローカル局ですが、それでも結構反響があるんですよ。自分のビジネスが人から認められて、
少しずつ大きくなっていく感じが嬉しくて面白くて。テレビはやっぱり凄いなぁと思っていた矢先、自分の人生を変える出会いが起こります。
当時日本テレビで「電波少年」という番組があったのをご存知でしょうか。有吉弘行さんが猿岩石時代にヒッチハイクで有名になった番組です。
休みの日にぼんやり見ていると「何かを成し遂げたい20代募集」という告知が目に入りました。
何をするかは全く触れられていませんでしたが、その瞬間、本当に1秒で“応募しよう”と思いました。
まだハガキで応募の時代だったのですが、何とか受かりたい一心で地元の新聞や雑誌で取り上げられた記事のスクラップや作文も同封しました。
ただ有名になりたいだけの人間じゃない、自分は実際に海外に行ったりお店を開いたり、行動ができる人間なんだということをアピールしていた気がします。
超人気番組で倍率がすごいことは想像がついていましたから、とにかく人と違うところを見せないといけない。そのためには「自分を選ぶとこんなに番組にいいことがありますよ」
「視聴率が上がる人間ですよ」ということを番組制作者の立場になって考えて、アピールしました。
なんだろう、とにかく燃えていましたね(笑)。決してタレントになって有名になりたいわけではなく、自分の会社を広げていきたい。
そのためにこのチャンスを逃がしてはならない。その一心でした。書類選考のあとは面接なのですが、会場に行くと俳優とかお笑い芸人の卵がいっぱいいるわけですよ。
自分はこいつらとは絶対に違う。覚悟はもちろん、これまでやってきた行動の質も量も違うんだ!と信じていました。面接官に背負ってきたリュックを見せて、
「このバッグに全部入れて東京に来ました!僕には帰るところはありません!」とか言って。本当は札幌にまだ部屋はあったんですけど(笑)
面接が終わり2週間ほど経ったある日、家のチャイムが鳴りました。 出てみると知らない男の人達がカメラを持っています。「おめでとうございます。合格です。 2週間後にパスポートとハンカチサイズの袋に入るだけの荷物をもって日本テレビ前に集合です」そう言われて初めて「あ、合格したんだ」と理解しました。 後から聞くと2000人ほどの募集のうち合格は10数名。 なかなかに狭き門です。徹底的に相手側に立って思考し行動することで結果はついてくるという一つの成功体験になりました。
お店のことをはじめ身の回りの整理を大急ぎで済ませながら親に挨拶にいくと、母親から猛烈に反対されました。 「テレビなんて信用できない。騙されているに違いない」の一点張りで、どれだけ説明しても耳をかしてくれません。 仕方がないので番組から伝えられた集合日に母親もつれていくことにしました。テレビ局の建物やスタッフさんを見たら、 少なくとも騙されていないことだけはわかるだろうと思ったのです。
集合場所は日本テレビ。伝えられた時間に到着するとスタッフが待っていました。「ほら、ちゃんとした番組でしょう?」なんて母親に言いながらスタッフに名前を告げると、
「高畠さんですね、じゃあ荷物とパスポート預かります」とだけ言われ、挨拶もそこそこに目隠しのアイマスクをつけられました。
あれ?っと思う間もなく今度は周りの音が聞こえないようにヘッドホン(当時番組をご覧になっていた方は想像できると思いますが)。母親に別れの言葉をかける余裕もありませんでした。
母親からすれば、テレビ局についてほっとしたのもつかの間、ほとんど拉致みたいな感じで息子が連れていかれるのですから不安だったでしょう。
しかも息子が向かう先のマイクロバスには同じようにアイマスクにヘッドホンの男ばかりが10数名乗っている(笑)。時代と言えばそれまでですが、勢いとはすごいものだなと思います。
私が合格したのは「電波少年的アンコールワットへの道の舗装」というコーナーでした。20代の男性10数人がカンボジアのある地点からアンコールワットまでの89kmを地雷を避けつつ舗装していくというものです。 結果から言うと、私は早々にこの企画からリタイヤすることになりました。もうそれは、単純に、「これは経営とは関係ないな」と感じたからです。 会社を大きくして、みんなが楽しく働ける場所をつくりたいという野望とこれは繋がってないなぁと。スタッフさんに謝りながらその旨を伝えたのですが、 我ながら何だか負けた感じというか…口から出る自分の言葉が、向こうからしたら言い訳っぽく聞こえているんだろうな…ともどかしかったことを今でも覚えています。
そりゃあ自分が一番悔しかったですよ。あれだけ一生懸命頑張って電波少年に合格したのに途中で投げ出すなんて。このリタイヤが自分の負けではないと証明することを、私は心に決めました。 電波少年は思ったものとはちょっと違ったけれど、やりたいことは変わっていない。 絶対に自分の会社をつくって本当の目標を達成するんだ!と再び自分の心に火をつけました。
この後、カンボジアからの飛行機の中で、のちの株式会社リハビリ介護の基礎が生まれました。
パン屋、雑貨屋、インドネシア料理店とこれまでの仕事を思い出しながら「日本に帰ったら何をして生きていこう」とぼんやり考えていました。
仕入れがないものがいいな、ロスや廃棄がおきないものがいいな、リピーターがつくものでないといけないな‥と、
過去の自分を整理していったとき、ふと頭の中に降りてきたのがマッサージでした。
仕入れもロスもないし自分の体ひとつでやっていける。今思えば「考えた」といえるほどでもない思いつきでしたが、まずはそこに進んでみようと決めました。
帰国した私はすぐに整骨院の学校に入学し、並行してマッサージのお店でアルバイトをはじめます。仕事を覚えるにつれ、この商売ならいけると確信を深めていきました。健康保険
も使えて3割負担で身体が軽くなるというこの体験は、お客さんにとって嬉しいことしかありません。そして一度気に入ってもらえればしっかりとリピーターになってくれるのです。
学校を卒業し、雇われの整骨院院長を3年勤めたのちに30歳で自分の整骨院を開業します。
2店舗目、3店舗目と広げていくうちにおじいちゃんやおばあちゃんにもっと寄り添ったサービスが必要だな、と考えてデイサービスもはじめました。
それから少しのちに現在の主力事業になる就労支援も開業します。
思い返すと、何かに追い立てられるように学びや仕事をしていたなと感じますね。間違いなく、小学校1年生の不登校の経験が影響していたのでしょう。
一度社会のレールを外れてしまった自分は、他人の倍は努力しないと一人前にはなれない、と思い込んでいました。どれだけ自分を追い込んでも足りない気がして…もっと動かないとダメだ、
もっとお金を稼がないと世間に顔向けできないと常に考えていました。今でこそ50名以上の従業員を抱えるようになりましたが、実は社長業のかたわら鍼灸の学校に通って鍼灸師の資格を取り、
2023年3月まで鍼灸の大学院に通っていました(笑)。経営者に専念すればいいと思うのですが、
自分でもちょっと呆れるくらいのM体質というか…お陰様で今はそこまでの強迫観念は無くなりました。ようやく少しだけ、自分や自分のやってきたことに自信を持てるようになったのかもしれません。
何とも統一感のない私のキャリアですが、共通しているのは人を直接喜ばせる場所をつくっているということでしょうか。 株式会社リハビリ介護でも「癒し」という言葉を大切にしています。 お客様、利用者様、そして従業員にもとっても癒しを感じられる場をつくりたいなと常に考えています。
何度かお話しているように、背景には自身の不登校の経験が影響しています。一人で家に籠りながら、自分は人とは違う。 社会から取り残されてしまったという焦り。行きたいけど行けない、行きたくない。 もう自分は落伍者になってしまったという惨めさ。現在同じような気持ちを抱えている人やそのご家族に対して、 行きたくなる場所をつくることができたらと常に考えて事業運営を行っています。
それでは、行きたくなる場所とは何か。もちろん、それは人それぞれだと思います。だからこそ、 私たちの施設では「行きたくなるポイント」と言うのでしょうか、人が使いたくなるような仕掛けを必ず用意するようにしています。 熱帯魚を飼う、植物を多めに入れる、漫画喫茶のように周りが少し囲われて一人になれるスペースをつくる、 1食250円のランチは手作りにこだわる…一つ一つは小さいのですが、それでいいと思っています。Aさんは熱帯魚が好きだけど植物には興味がない、 となっても別に植物があることで何かの邪魔にはなりませんから。 会話が生まれる仕掛けや落ち着ける場所をたくさん用意しておいて、その中のどれか一つでも引っかかってもらえればそれで充分です。
就労支援施設で行う作業は施設ごとに異なります。弊社はそのなかでも室内で出来る作業、具体的にはデータ入力や動画編集といったものに特化しています。 清掃や農作業など外に出て身体を動かす作業を採用していらっしゃる施設もありますが、 様々な理由で社会に出づらいという事情をお持ちの方には、室内で完結する作業の方がトライしやすいかなと考えています。
弊社施設の年間就職率は10%を超え、累計では10名以上にはなるでしょうか。一般的には1~2%と言われているのでかなり高い方だと思います。 ただし、これは就労を目指して遮二無二追い求めた数字ではありません。もちろん利用者さんの最終ゴールは、仕事に就き社会に出ていくことですが、 そこだけに追いかけるつもりはないのです。行きたくなるとか、行ってもいいかなと思える場所があって、そこに通ううちにつながりができて、やがて利用者さんの居場所の一つになる。 まずは、そんな役割を担いたいですね。利用者さんのご家族も、一足飛びに就職できるようにしてください!というのではなく、 まずは家の外に、ゆったり過ごせる場所をつくるというステップを踏むだけで随分と心持ちが変ってくると考えています。
これをお話しすると少し誤解を招いてしまうかもしれませんが…株式会社リハビリ介護でもっとも重要なステークホルダーは従業員です。利用者さんや取引先ももちろん大切で、なければならない存在ですが、それでも誰を最優先するかと言われれば迷わず従業員を選びます。
なぜなら、どこまでいっても会社の基礎は人だと考えるからです。特に、就労支援や整骨院はサービスレベルに人が関与する割合が非常に高い職種と言えるでしょう。
同時に我々の仕事は、対人サービスの中でも様々なストレスがかかりやすい分野です。利用者さんのなかには、妄想や幻聴、被害妄想の症状がある方も珍しくありません。
何気ない一言で誤解させてしまったり、ちょっとした声のトーンや相槌、返事の仕方で利用者さんを傷つけてしまったり、勘違い等から怒らせてしまうこともあります。
これは決して相手が障がい者だからではありません。どこの組織でも人間関係にはあることだと思っています。
私たちは会社理念である「仲間、顧客の癒しの為に行動する」と行動指針の「まず自分が変わる」
「常に向上心を持って行動する」「家族、仲間、顧客に感謝の気持ちを持つ」ということを1番大切にして働いています。
健常者も障がい者も関係なく、自身が他責ではなく自責の考え方でコミュニケーションを取り続ける必要が、この仕事にはあると思っています。
そのような職場に必要なのは、スタッフの心の余裕です。人間ですから、自分自身が安定していないと余裕をもった対応を行い続けるのは難しい。 だからこそ労働時間や給与や福利厚生や就業規則が、心と体に余裕をもたらすものでなくてはなりません。 また、環境が整っていてもスタッフ同士の人間関係が良好でなければ、働きやすい職場とは言えないでしょう。それでは利用者さんに満足いくサービスを提供できないのです。
では具体的に何をしているかというと…色々あるのですが、例えば人員配置で言えば、 業界平均よりも多い人数を必ず割り振るようにしています。その分人件費が高くついてしまうので短期的な事業運営にとってはマイナスですが、 現場作業はその分余裕が生まれるし、 休みも取りやすい。利用者さん一人ひとりと関われる時間も増えますよね。優先順位の真ん中に従業員に置くからこそできる試みだと思います。
中途で弊社に応募してくださる方々のほとんどが、前職での労務環境や人間関係を転職の理由に挙げています。 私は弊社を卒業する人が次の職場で語る転職理由に、これらが挙がることはあってはならないと思っています。 人は、自分が充足しているからこそ、周りに優しくできるのですから。弊社には18歳から65歳くらいまでの方がいらっしゃいますが、 職場の年齢層が広いというのも大切なことだと感じています。このような場所だと、30歳が18歳に「最近の若い子ってさ」って話した後に、 60歳の人から同じことを言われたりするわけですよ(笑)。そうすると、「あぁそうかお互い様か」って思えるじゃないですか。ダイバーシティというか、お互いを受け入れることが当たり前になる。 そうした社風が生まれることは、就労支援という環境では貴重なことだと考えています。
従業員の7割くらいが女性ですが、産休育休もとってもらっているし職場復帰する方も多いですね。有給消化も90%近くまでいっています。冠婚葬祭や誕生日にはお祝い金を支給していて、各種社会保険はもちろんのこと、先日は全額会社負担で従業員の民間生命保険に加入しました。入院通院7大疾病の際に一時金が支給されるタイプのものです。万が一の備えがあるからこそ安心して働けると思うので、その一部分でも会社がまかなえたらと思っての施策です。 個人で加入している保険が必要無くなれば、その分毎月のやりくりも楽になりますよね。先日も大きな病気をしたスタッフがいましたが、保険が適用になり「本当にありがたかったです」と言ってもらえました。
これまで何度かお話してきた「人間には行きたくなる場所が必要だ」という考え。私たちの施設が、まずは、従業員にとってそういった存在になっていないとダメだと思っています。
ここまでお話しするなかで、弊社はどういった方に向いているだろう…と考えていました。 もしかすると「就労支援という仕事はすごく難しそうだ」「神経をすり減らす職場に違いない」と感じる人がいらっしゃるかもしれませんが、そうは思いません。 もちろん、最低限のホスピタリティは必要です。ただし人として普通に有しているレベルがあればOKです。そうですね、例えば電車でお年寄りに席を譲った経験がある人、結構いると思うのですが、それで充分です。 ちょっとした思いやりとそれを行動に移した経験というのでしょうか。 根っこにそうした軸さえあえあれば、あとは様々な行動や声掛けのパターンで目の前の人を応援することができるはずです。現に、弊社の中途入社は半分が未経験者の方。特に問題なく日々業務を行っていただいています。
業務自体は確立されているので、安定した働き方や収入を求めている方にも向いていると思います。 営業マンのように大きなアップダウンはありませんが、その分激しいノルマや競争はありません。 年齢・性別はもちろん不問ですし一生使える資格も取得できます。 主婦になっても子育て中も、子どもが独立した後も変わらず勤められる環境は、様々な方にとって嬉しいものではないかと思います。
話は変わりますが、私は今、札幌市西区にキャンプ場をつくっています。 ただの山だったところに土地を買い、木を切ったり石をどけたり…もう2年くらいそんなことを続けています。 人生100年時代と言われていますが、自分もそろそろ人生の折り返し。 子供も小学生になりました。 そんな自分が格好いいおじいちゃんになるにはどうしたらいいかなって考えたとき、自分の好きな0から1をもう一度何かでやってみようと思ったんです。
何もないところから努力して自分や人が喜べる場所をこしらえる。 その楽しさややりがいを子供や従業員にも見せられたらうれしいですね。 このままいけば2024年度中にはオープンできそうなので、皆さん遊びに来てください。
こうして振り返ると、やっぱり人に助けられてきた人生だなと思います。飲食店を始めた時も、知り合いや友達が一緒になって店をつくってくれました。 看板や内装やキッチンや…本当に手作りの店でした。 今の会社で就労支援事業を始めた時も、当時15人いた従業員が一生懸命サポートしてくれました。 障がい福祉法や消防法、建築基準法などといろいろ法令等が大変なのですが、新規事業も展開し続けることが出来ています。
こ「社長は私たちが困った時には必ず助けてくれる人です。 だからこそ、毎日の現場のことは私たちに全てお任せください!」って自主的に助けてくれて。 本当にありがたいですし、僕からしても頼りになる誇らしいスタッフたちに日々助けられています。
人間、ひとりで出来ることなんてたかが知れています。だから仲間と一緒に頑張る。そのために、まずは自分が人一倍頑張ってみる。そんなことを繰り返していくうちに、色々な人が集まってきてくれました。 裏を返せば、私の周りには誰かを手伝うとか助けるということを、ごく当たり前に行える人ばかりということですよね。ありがたいことです。
ここまで長文を読んでいただきありがとうございます。私や私の周りにいる人たちは、こんな人間です。どうかお気軽にご連絡ください。ざっくばらんに貴方や私のことをお話しすることからはじめましょう。